聞きたいことは

一般的に、とか

普通は、とか。

社会的に、常識的に。

 

そういう言葉で、人は気持ちを隠してしまう。

本当に言いたいことがあるときに

言いたいことを言わないで

「普通は〜…」

とお説教したりする。

綺麗な言葉や、もっともらしい説で丸め込もうと

言いたいことをごまかしてしまう。

 

そういう「大人な対応」が、私は大嫌い。

自分の気持ちを隠して

大義名分で勝負しないで

「くそったれ!くたばりやがれ!」

でもいいから

なんで怒ってるのか

なにが嫌だったのか

教えてほしい。

怒ったり嫌悪したりするのは傷付いてるからでしょう。

綺麗な言葉じゃなくていいから

ほんとのことを言ってくれないと

どうしてその人が傷付いてるのか

一生理解できないまま。

例え喧嘩になってもいい

一生すれ違うのは、ごめんだ。

 

普通は、一般的に、常識的に。

そうじゃない。

あなたはどう思ったの。

それが聞きたい。

 

綺麗な言葉でごまかして

ほんとの気持ちが言えなくて

人間っていうのは

本当に不便な生き物。

 

 

ひとりぼっちの生き物

仏教には「独生 独死 独去 独来」という言葉がある。

「人はひとり生き、ひとり死ぬ。やって来るのもひとり、去って行くのもひとり。人間というものは、ずっとひとりぼっち。魂が孤独なもの」

という、お釈迦様の教えだ。

「わたしのことを分かってくれない、などと言うけれども、そもそも人のことを理解することなど人にはできません。やろうとしても出来ないことです。」

といったことを説かれている。

 

ではなぜ、人と人は出会うのだろう。

なぜ、人は誰かと居ようとするのだろう。

なぜ「分かってほしい」と願うのだろう。

 

ずっとひとりぼっち。それが人間。それなら誰とも出会わなければいいし、誰かに分かってもらおうともしない方が合理的じゃないか。

結婚しても家庭を持っても子供が出来ても孤独なんだ。それなら最初から、ひとりきり細胞分裂を繰り返す生き物にしたらいい。

分かってもらおうとするから、争う。傷付け合う。戦争だってなくならない。

どうして人間とは、こんなにも矛盾を抱えて生きにくい、そんな生き物なんだろうか。

 

お釈迦様からしたら「私はひとりぼっちだ」と思う、それ自体がおこがましい考えなのだと思う。

みなひとりぼっちなのだ、ひとりぼっちということは、嘆く必要がないことなのだと、諭されそう。

けど私はお釈迦様にはなれない。

だから、眠れずにこんなことを考える夜なんかは、ひとりぼっちすぎて最高に寂しい。

 

ひとりぼっちの生き物ニンゲン。

それならどうして人と出会うのでしょうか。

 

答えは出ない。きっと一生出ないものなのだと思う。

だから生きてる限り、考えたい。

 

いつかずっと未来で、お浄土に行ったとき。お釈迦様に聞いてみようと思う。

拝啓お釈迦様。人と人とは、どうして出会うのでしょうか。